知人と映画の話になりました。知人は最近話題のある映画を観に行っていて、わたしも見たいと思っていることを伝えていました。そう、見ようと思っていることを話したのです。
ところが、その知人は「ラスト付近でウトウトしちゃったんです。この映画ラストで○○するんですけどそこの爆発音で目が覚めて……」と。
○○の部分には映画のラストシーンの大事なところに触れていました。
いや、わたし観ようと思ってるっていったじゃん……?
その人にとっては観る予定の相手へのネタバレよりも、自分のドジっ子エピソードを話す方が優先されたわけです。
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ネタバレは自己防衛も大事だけど、いきなりふってくることもある
わたしもネタバレ込みのレビューを書いてますので、ネタバレ踏みたくない人には注意を促しています。
ネットの場合、作品の事前情報を仕入れようとするとどうしてもネタバレにぶつかります。ネタバレを踏みたくなければある程度自分で防衛するしかないのです。
回避が難しいのは最初に書いたような会話でのネタバレ。そして突如として友人から送られてくるメールやLINEなどのメッセージです。
わたしは過去に「SAW」の1作目で元友人から「ちょっと考えるとふんわりオチが予想できる」メールが来たことがあります。わたしも観る予定だったので(実際観に行った)、名言はしていなかったのですが、「これってこういうオチじゃね?」という予想が立てられる内容だったのです。
そして映画はその通りのラストシーンでした……。
その元友人はネタバレにとてもユルくて、ミステリー映画で「○○がカッコよかったよ! 犯人だったけど」(わたし未見の映画)という内容が来たりしていました。その他色々ゆるくて疎遠になったのはまた別の話です。
フィクションへ対する熱量の差
最初に書いた知人は、映画鑑賞でラストシーンに何が起こるかを話すことは問題ないと判断したんでしょう。実際そのシーンの後にどうなって終わるかまでは言いませんでしたから(当然だけど)。
ただ、映画を楽しむ上で、最後こうなるよ、というのを知っているのと知らないのとでは全然違うんですよ。予備知識もとっかかりレベルのこ「こんな感じの話」というの以上は知りたくないんです。
まったく興味のなかった作品について、ちょっとしたネタ話を聞いて興味を持つということはあります。でもそれは「興味のなかった作品」だからです。
相手が観ようとしている作品の結末に触れる話は、その人がネタバレ許容派なのかどうかを確認するのがせめてもの気遣いなんじゃないでしょうか。
ネタバレのがっかりと、あなたのうたたねエピソードの価値は等価じゃないよってことです。
メールネタバレの元友人と共通するのは、「自分が話したいこと」が最優先だということ。受け手がどうかとか脇におかれているんですよね。
「なんで言うんだよ……!!!!」というこちらの感情は「そんなこのぐらいで怒らないでよー」で済ませられてしまいます。
フィクションに対する価値観の違いなんでしょう。
映画に限らずフィクションを楽しむ時はひっそりと自分ひとりで、というスタンスはこういう出来事で強化されて行くのです。